自分史(6)
「同じ昭和56年秋、小谷の道路353号線(の拡張工事)の話が出て、まさかと思っていた我が家移転の事となり、100年以上の家を壊し六日町へ土地を買った。
明けて57年6月5日、小谷を後へ、六日町余川へ移った。生まれ育った所を離れる淋しさ悲しさ、口には出せず一生涯忘れる事は出来ない。
六日町に来ても、毎日が虚しく仕事をするのも嫌な毎日だったけれど、そうもしていられなくなり、主人は6月7日より丸川屋へ仕事に出る様になるが、10日くらいで身体を壊し、腰を痛めて寝たり起きたりという日が続くようになり、代わって私がサンバレーひぐちさんにパートで働くようになり、遅い時は夜11時と言う時もざらではなかった。
2年ほど働かせてもらう内に、まいたけ工場で働き始めた。主人は半年ほど休んだ後、以前から働いていた松之山板金の人が又働かせてくれることになり、喜んで通勤時間も気にせず、寒い日も夏の暑さにも負けず働いてくれた。
生活も最低限にし、付き合いも少ない事もあって助かり、ともかく村を出て来た口惜しさを忘れない日々、何はともかくただただその一念、一日も早くお金を貯める事に頑張った。
昭和一桁生まれの私達だ、新人類には決して分かってもらえそうもない。」
つづく。
明けて57年6月5日、小谷を後へ、六日町余川へ移った。生まれ育った所を離れる淋しさ悲しさ、口には出せず一生涯忘れる事は出来ない。
六日町に来ても、毎日が虚しく仕事をするのも嫌な毎日だったけれど、そうもしていられなくなり、主人は6月7日より丸川屋へ仕事に出る様になるが、10日くらいで身体を壊し、腰を痛めて寝たり起きたりという日が続くようになり、代わって私がサンバレーひぐちさんにパートで働くようになり、遅い時は夜11時と言う時もざらではなかった。
2年ほど働かせてもらう内に、まいたけ工場で働き始めた。主人は半年ほど休んだ後、以前から働いていた松之山板金の人が又働かせてくれることになり、喜んで通勤時間も気にせず、寒い日も夏の暑さにも負けず働いてくれた。
生活も最低限にし、付き合いも少ない事もあって助かり、ともかく村を出て来た口惜しさを忘れない日々、何はともかくただただその一念、一日も早くお金を貯める事に頑張った。
昭和一桁生まれの私達だ、新人類には決して分かってもらえそうもない。」
つづく。
by yuji_aizawa
| 2008-02-16 22:35
| 番外編