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「二人で頑張って集めた品物、引越の度に捨てる事ばかり。現在の所(昭和63年2月25日)使っている物は、夜寝る時の布綿ばかり。
松之山には山ほど置いてあるのに、どの品物を見ても思い出の物ばかり(二人にとっては)だ。 私は生まれつき我がままで人一倍気が強く、おまけに人に負けるのが大嫌いな体質ゆえ、主人には大変我がままも言ったけれど、私が選んだ人、主人はとてもやさしく、私を可愛がってもらった。有難う貴方、私の大好きだったお父ちゃん、私を大切にしてくれて有難う。 三世代一緒に暮らすと言う事は、年を取った人が我慢するのが大切だと思うと、自然と口数が少なくなる。あんなに喋った頃もあったのに、どうしたのだろうか。自分自身が分からなくなって来た。 新しい家が出来上がると言うのに、どうしてこんなに淋しいのだろう。先の事は考えても致し方ないとは思っているんだけれど、心配性の私にも困ったもんだ。」 おわり。
「こちらへ来て、今日で3ヶ月が過ぎたのに、友達が一人も出来ない。人好きの私にはこれが一番淋しい。今まで味わった事のない事だ。
人間、友達のないほど淋しいことはない。5年余り居た六日町では、工場長、ハッちゃん、Nさんと心を開いて話し合える方々に巡り会い、一人で病気の時、助けて戴いた。三人さん、短い間だったけれど本当にありがとう。毎日の様に思い出しております。 家なし、仕事なし、お金なし。私は若夫婦の重荷になって生きて行かなければならないのだろうが、自分ではまだまだ若いつもりでいるのだけれど、孫たちとにぎやかに笑っているけれど、心の晴れる日は一日とてない。 でも、これが人生と言うものなのか。 私が死んだ時は小谷へ帰りたい。葬式は松之山のお寺でしてもらいたい。30年も連れ添った父ちゃんを置いて先に死ぬ事は出来ない。 大切な大切な父ちゃんだもん、ああ、気楽に暮らしたい、二人になりたい。」 つづく。
「62年8月、娘は二人目を出産のため、Tを連れて帰って来た。
8/9日一番心配していたYも、Hさんと結婚式を挙げる。8/8日の前夜は、六日町では二度と無いであろう私の姉さんと妹が泊まりがけで来てくれ、本当に嬉しかった。 11時過ぎに休み、朝3時頃娘にお腹が痛いと起こされる。心配しながら川越の式場へと急ぐ。11時過ぎに着き、急いでTELを入れる。無事出産、女の子、Hちゃんだ。 9/9日、遂に家が売れる。感無量、言葉にならない。11/3日に家を空けることになった。3年2ヶ月勤めた(雪国)まいたけを10/8日で辞め、毎日の様に家の掃除始める。 幸いにも、黒倉中屋さんが空き家になっているので、主人と二人で荷運びをする。 家の中が空っぽになり、淋しくなる。 一度あれば二度三度と引越ばかりしなくてはならない。一度は六日町、二度目は南越谷、6月には千葉県の野田へと、私達夫婦は本当に安堵する時はいつになるのやら。 主人はこの冬も愛知県へ出稼ぎ、私は仕事はしたのだけれど、年齢的にはなかなか働く所がない。また、時々腰が痛み、ままならない。 長男夫婦には悪いと思うけれど、家で遊んでいる毎日だ。」 つづく。
「頑張りに頑張った二人だけの生活、少しは楽になり、これからのんびり出来る様になる頃には、第3の人生が始まり出していた。
六日町に来ても腰を痛めた主人は、雪の降る中スキー場での勤めは無理のため、以前より働いていた酒屋へと半年は別々の生活。私も昼間は働いているため、屋根の雪掘りはいつも夜ばかり。 ついに腰が痛くて歩く事も出来なくなり、61年2月22日、こしじさんに助けを求め入院する。約3週間会社を休み、3月下旬職場へと。 この年は多難の続く事が重なり、膝に水が溜まり、左足親指の爪を取り、医者に通い通しだった。 孫も4人、誰の目から見ても幸福そうな二人でも、心の中には一つの悩みがあった。子供たちにはこんな生活はさせたくない。させてはならない。いつも心の底から思っている事で、親とは何と愚かな者だろう。 自分の事よりも、いつもいつも子供たちや孫のことばかり、雪の降る新潟よりも雪のない都会へと考え始めた。 家を手放すのなら、新しい方が高かろうと売りに出す事に決める。62年の秋のことだった。 主人は力を落とし、何もかもが嫌になったと言う。私も何と答えたら良いのやら、言葉に困った。(読解不能)二人で涙涙の連続だ。」 つづく。
「同じ昭和56年秋、小谷の道路353号線(の拡張工事)の話が出て、まさかと思っていた我が家移転の事となり、100年以上の家を壊し六日町へ土地を買った。
明けて57年6月5日、小谷を後へ、六日町余川へ移った。生まれ育った所を離れる淋しさ悲しさ、口には出せず一生涯忘れる事は出来ない。 六日町に来ても、毎日が虚しく仕事をするのも嫌な毎日だったけれど、そうもしていられなくなり、主人は6月7日より丸川屋へ仕事に出る様になるが、10日くらいで身体を壊し、腰を痛めて寝たり起きたりという日が続くようになり、代わって私がサンバレーひぐちさんにパートで働くようになり、遅い時は夜11時と言う時もざらではなかった。 2年ほど働かせてもらう内に、まいたけ工場で働き始めた。主人は半年ほど休んだ後、以前から働いていた松之山板金の人が又働かせてくれることになり、喜んで通勤時間も気にせず、寒い日も夏の暑さにも負けず働いてくれた。 生活も最低限にし、付き合いも少ない事もあって助かり、ともかく村を出て来た口惜しさを忘れない日々、何はともかくただただその一念、一日も早くお金を貯める事に頑張った。 昭和一桁生まれの私達だ、新人類には決して分かってもらえそうもない。」 つづく。
「昭和45年1月29日、義父風邪がもとで10日病んだ後息を引き取る。幸いにも小雪にて、主人の兄弟もみんな来てくれ、当時としては盛大な告別式を済ませる。
やがて子供たちも親の手を離れ、長男は○○郵便局へ就職、長女Kは横浜で看護婦として働き、二男も上福岡へと巣立ち、二人きりの生活となる。 昭和50年、茅葺きだった屋根を多大な賃金で家を建て替えた。暮れには農協さんの世話で民宿を始める。「越路荘」と名付け、儲かりもしなかったけれど、お客様にはとても喜んで戴き、忙しい中にも張りがあった。 55年の冬には生まれて初めて出稼ぎ(松下冷機)に。死ぬ思いで頑張って半年で帰る。 56年の冬は宮田自転車へ務めたが身体を壊して2月半ば、娘のアパートへ4月中旬まで世話になった。」 つづく。
「Yも4才になり、農繁期保育所が校舎の一部にでき、ホッとした。けれど、耳を病む時が始まり、小学校4年の秋10月27日、高田中央病院にて手術することになる。
この年、昭和45年1月29日、義父悪性の風邪で10日間の看病の甲斐もなく、88才で亡くなる。 主人は出稼ぎ、高校の息子、小学6年の娘、実家の母より来てもらい、留守を頼み、50日間付き添いをして帰りにはすでに根雪となる。12月中旬、やっと家に帰って来た。 二人の子供はすでに自分の事は自分でできるように躾け、娘はもう米をとぐ事も出来るようにしていた。 娘は、小さい時から弟思いの気の付く可愛いらしい子に育ち、近くの小さい子供たちとも仲良く遊び、本当に手のかからない子だった。」 つづく。
「次男のYは、すくすく伸びて元気一杯。ところが、3才の夏、長女Kと友達のSちゃんと7月土用のある日、涼しい所で遊びに夢中、そばにあったテッサク(編者註:昔は谷を挟んで稲を渡す手段として、ワイヤーを使って行っていた。それをテッサク(鉄柵)と呼んでいた)に捕まり、助けようとした娘共々走り出し、Yは20メートル落下(幸い田んぼの中)。
娘は遥か向こうの山小屋に無事着き、神様のおかげで二人とも怪我一つなく命をもらい、私は身の縮む思い、未だ一日とて忘れる事が出来ない。 知らせて下さった向こうのおばあちゃん、本当にありがとうございました。」 つづく。
「昭和29年1月13日長男生まれる。丁度小正月のお餅をつく日だった。Hと名付け実家の両親、主人とても喜んでもらい、3日も病んだ甲斐があった。
40日迷惑をかけて、家に戻る。昔の事とて、寒い冬、おむつ洗いが大変。幸いHは親の苦労を知っているかのごとく、とても良い子だった。こうりの中に入れてもらい、すくすく育ったが、男の子特有のため、大変苦労する。 義父は子守りより仕事が好きで、ほとんどおんぶはしてくれなかった(H、子守りに来てくれた)。 ある日、雨の中一人で田んぼに出て、崖から逆さまに落ちて、あわや命拾いの時もあった。 昭和33年12月25日娘誕生。Kと名付ける。二人の子持ちとなる。 主人は屋根職人、当時は木庭(こば)職をしていたし、子育ての私は田んぼにも長くいられず、ひえだらけの田んぼだった。 昭和36年3月5日次男Y生まれる。」 つづく。
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